殺す母と悩む母 精神科医・斎藤学 by 毎日インタラクティブこの事件の場合、警察が事故と判断した娘の死に関して容疑者が「人手が絡んでいる」と言いはってビラまきまでしたり、マスコミの取材を受け続けたり、ついには他人の子を殺めるまでに至ったことが奇怪とされているのだが、ここに述べたような空虚感にとらわれた弱い母親に見られる代理ミュンヒハウゼン症候群の亜型とみなせば説明可能である。
普通は我が子にけがを負わせたり、発熱その他の身体症状を起させたり(医療従事者なら可能だ)して救急車で病院を訪れ、大事な我が子が死に瀕(ひん)している「悲劇の女性」を演じ、医療関係者の注目と同情を集める。これと似たことを極端な状況のもとに行なったのが鈴香容疑者ではないか。このような女性たちは、社会の辺縁にいて人々に無視されていると思いこんでいるおり、その分だけ人々の注目を必要としているのだ。
母性神話が、現代の母親達を追い詰めていると言われるようになってから、どのくらいたつのか私は知らない。
その弊害について、くだくだ述べるのも、もういいって感じだから端折るが。
この記事を読んで、ああ、なるほど、ミュンヒハウゼン症候群の亜型という考え方ができるのかあ!と手を打ったりしたのだが、元々がミュンヒハウゼン症候群は、非常に特徴的な疾患で割に有名であるが、診断は容易ではない。
また、この事件のように子供が被害にあう危険がある疾患というのも、別にこれだけではない。
今の世の中、色々と生きることが難しいのかもしれないが、この記事で触れられているように、同じような問題を抱えているように見えるのに、自分の内面世界について酷く悩む人と、全く悩まない(あるいは相談するなどの表に出す行為をしない)人がいる。
興味深いことに、これらは正反対のようでいて、実は単に同じものを裏表にしただけのようにも見える。
共通するのは、視点の偏りだ。
人間関係が悩みの種という人は多いが、大抵の人は、そのような問題を考えるときに、自然とバランスを取ることができる。
つまり、それは考え方、感じ方、好悪の感情などの内面的な問題であると同時に、立場や状況、あるいは運などの外界における現実とが絡み合った問題だと認識し、全ての原因を内面に求めようとはしない。
だから、自分の力で当面どうにもできない部分にも、責任を一部預けてしまって、必要以上に考え込むことはない。
悩みすぎる人というのは、問題の大部分を内面世界に求めようとする。
感情の揺れは、あるのが正常だし、好きな人もいれば嫌いな人もいるのは当然で、それらは別に病的でもなければ、無理な解決を図れることでもない。
人間はロボットじゃないのだ。
逆に悩まない人は、全てを外界に求めようとする。
自分自身の努力で解決できることや、考え方を切り替えることで対処ができることを認めず、外の何かが悪いと考える。
だから、自分の考え方を変えずに他人を動かすために、とんでもない行動をとることがある。
どちらにしろ、程々が出来ない人達だと言える。
では、そういう人が母親となったら?
人間は、生物として母親になることと、社会の一員として母親になることに解離を生じさせてしまった。
子供を生むことはできても、社会の中で上手に適応した母親になるためには、努力と経験、学習が必要になってしまった。
即ち、母親になることは、誰にでも出来ることではなくなったのである。
そして、その母親業の技術習得に躓いた人は、本来生物として持っている母性までも活かせなくなったり、自分の母性について自信を失ったりする。
勿体ない話だが、いまや珍しい話でもない。
色々な要素を少しずつ考慮してバランスよく解決を図ることが苦手な上記のような悩みすぎる人、悩まなさすぎる人は、この生物的母性と社会的母性のバランスを取ることも、当然難しい。
しかも、上手くいかない原因を上手に理解して対処することも苦手とするから、二重に追い詰められる。
しかし、困ったことに、躓いてしまっても、生物として母親になってしまったら、母性習得に失敗したからといって、母親を降りることは非常に難しいのである。
逃げ場がなくなった母親は、自分をその苦しい状況に追い込んだ原因である子供、それも絶対的弱者である子供に怒りを向ける。
怒りは、自己防衛反応の一つだ。
自分を苦しめる者に対して、人間は怒りを感じるのだ。
従って、解決策は、技術習得のサポートを行うこと、どうしても無理そうなら母子を引き離して、適切な養育が可能な人の手によって子供が育てられるようにすることとなる。
しかり、現在の日本では、これはとても難しい。
事件が起こってしまうまで、助けの手は伸びないのである。
こういった事件を考える時に、女なら当然母親になれるはずなのにといった生物的母性を基準に語り、言わば例外の事件と考えては、問題は見えない。
そんな母性なんぞ、いまや吹けば飛ぶのであり、母性というのは習得が必要な技術となったのだと理解しなければ、同じような事件は何度でも起こる。
免許が取れなければ、車は運転できないように、技術の習得に失敗すれば、子育てもできないのであり、技術習得ができないまま母親をやり続ける苦境に立たされた女性に対して、なんら有効な手助けが行われないことの問題を問うべきなのだ。
母親業というものは、相当に苦しく厳しく困難な仕事であり、誰でも出来ると思ったら大間違いだ。